マルクス経済学で資本論って何だろう。 チョイとお復習い
マルクス経済学で資本論って何だろう。スゴく簡単に言うと、資本主義経済の長期的な均衡発展を扱ったものが資本論だと、考えた方が判りやすい。ケインズ経済学なんかは短期的な発展経路を扱った理論だと考えた方が判りやすい。なぜ、こうなるのかと言うと、マルクスは長期的な均衡発展の経路を想定すると、セイの法則が成立する前提でないと、長期的な均衡発展を想定出来ないと考えた。もし、供給側と需要側が均衡発展しない、供給側によって需要が均衡発展しながら、蓄積軌道に発展経路が続くと言う前提条件をとらないと、資本の交換過程が成立しない。等価交換による資本の交換過程が成立しないとすれば、一つの交換価値に対して、一つの交換商品の使用価値が成立しない。こうなると、資本間の競争条件って安く買って高く売るとかの資本主義経済に先行する経済や不均衡発展を前提条件にすることになる。これでは不思議な話しになる。何処からか生まれたか分からない需要が、供給を作ることになる。
資本論の場合は、供給が需要を作る前提条件になるから、交換過程があって、等価交換があれば需要が成立する。この場合、供給と需要の拡大再生産していく謎が貨幣物神にある。つまり、もの凄く苦労して商品を作っても、自分の欲しい商品と等価交換出来なければ、自分が手掛けた労力は評価されない。だから、等価形態にある希少金属の重さや長さや計りなどが抽象化した数量や計りの尺度だけで、価値表現する回り道を重ねて、「アダム・スミスの諸国民の富」にも釘を例示して等価交換の何万回かの労力の果てに釘が等価形態になったと言う話しがあったね。リカードやアダム・スミスの労働価値学説には致命的な欠陥があった。
投下労働価値学説を主張しているが、投下された価値形態の数量や計りの尺度が貨幣になった。つまり、余りにも希少で誰にでも分かる投下された価値量の数量や計りの尺度が物神的性格を持って貨幣になった。だから、供給があれば、貨幣物神的性格が成立する。また、貨幣物神的性格が成立すれば、競争条件が成立する。だから、マルクス経済学にとっては、セイの法則を前提条件にするが、あくまでも、資本間の競争条件が成立する分析の必要から、セイの法則を利用する。
資本論の目的が労賃と労働力商品との等価交換によって搾取が均衡発展の条件を拡大再生産していく謎を暴くことにあるから、発展経路が均衡発展しながら、資本蓄積の条件が拡大再生産する前提条件を失うことは出来ない。
でも、セイの法則を利用すると何時も需要と供給が一致する想定が出来るから便利だけど、セイの法則には欠陥がある。供給が需要を決定する前提条件なんて事実上あり得ない。マルクス経済学の場合は長期的な均衡発展の条件が蓄積過程にあれば資本の拡大再生産が行なわれると考える。言い換えると蓄積過程に長期的な均衡発展経路、蓄積軌道があって、資本間の競争条件が生まれる。だから、セイの法則による前提条件が無くても、搾取が資本の拡大再生産の源泉であり、また、資本間の競争条件であると考える。こう考えると、資本間の競争条件が、搾取の方法を決定するし、蓄積軌道の固有の条件が資本間の競争条件を決定する。資本論第三巻には資本の物神的性格と領有法則の物神的性格が書いてあるけど、分かりやすく言うと、本当の利害関係の決定権を持っているのは、搾取されている労働者階級だけど、無茶苦茶な資本間の競争条件の結果、資本の集中と集積が過度に進み、搾取された剰余価値が労働者階級から、資本間の競争に領有される。こうなると、労賃と等価交換している資本にとっては、労働力商品なんて使い消尽するのは自由になってしまう。だから、労働者階級にとっては、労働力商品を資本間の競争条件に、勝手に消尽させないためにも、団結権と争議権と協働組合型社会を勝ち取って行くしか方法がなくなる。
まぁ、負けるのが当たり前ですが、本当の利害関係人としては多数派の決定権者は、労働者階級にあるけど、資本間の競争条件の結果、労働力商品と労賃との等価交換で、搾取が見えなくなってしまう。だから、決定権者は労働者階級だけど、剰余価値の所有権は資本間の競争条件になってしまった。こう成ると、もはや、労働者階級には手出しが出来ない。
この辺までが資本論第一巻かなぁ。

